2022年が始まったと思ったらもう4月25日、今日は給料日もとい例の事故の日ですね。
あれから17年ですか。。。
事故報告書が発表された直後に一日かけて読んだのですが、記述に違和感がある箇所が多々見受けられたのです。事故と直接つながりがないような部分を整理していくと一つの物語が垣間見えてきました。もしかしたら謎を解くカギをもつ人物がいる、しかしその人物から内容を聞き出すのは永遠に不可能、そんな悲しい物語。
というわけで以前Facebookのノートとして投稿したものを発掘してきました。あくまで珍説ですがご一読いただければと思います。当時の記事を加筆修正しておりますことをご了承ください。
2005年04月25日のことを書いてみる
私にはどうしても知りたいことがある。それは2005年4月25日、あの大惨事が起きた1時間ほど前の8時30分のメールの内容である。
脱線
あの日のことはよく覚えている。東京の大井にある研修センターで運転士の学科講習を受けているところで、その日は中間試験で科目は理論だった。私は比較的時間をかけて問題を解いていたので先に同期が数人教室を後にしていた。なかなかの難問に一息ついて教室を出たところ、休憩室に行っていた同期の一人が血相を変えて現れた。
「脱線事故が起きてる」
この時期にねぇ・・・と思いながら話を聞いていると発生したのはどうやら関西のJR線のようだ。まさかなと思いながら休憩室に向かうとテレビの前に学科担当講師と同期数人が呆然と立ち尽くしていた。そこに映し出されていたのは見慣れた各駅停車の車両が見るも無残に破壊された姿だった。
結論ありきの報告書
2007年6月28日。
事故報告書が当時の航空・鉄道事故調査委員会から公表された。
公表された次の公休日にその総てを読んだ。
正直なところ、数百ページに及ぶあの報告書は何の価値もないと断言できる。価値があるとしたら印刷した紙面を薪の着火剤に使えるぐらいであろうか。とにかく要領を得ていない。結論ありきのムチャクチャな代物だった。
もっとも原因究明に至る事実認定ではかなり良い線まで到達していたことは確かである。むしろ結論ありきの報告書での無言の抵抗とでも言うべきであろうか。
例を挙げよう。
列車ダイヤというものは駅から駅の所要時間を車種・種別ごとに算出して列車の時刻を決定する。その計算は現在ではコンピュータで行うわけであるが、その基準となる地点というものがバラバラであった。すなわちダイヤ上では駅中心点を基準に設定されていたが、肝心な運転時分の計算は駅の出口たる出発信号機で算出されていた。
この時点で列車のダイヤが微妙に変わってくるのであるが、更に制限速度を設定するにあたって基準となる列車の長さを設定するところ、社員の認識不足により(←ココ重要)デフォルトの10メートルのままだった。というよりそんなコマンドがあることすら知らなかったと記述されている。
小学校のときに習ったトンネル算を覚えてらっしゃる方はここでピンと来るはず。トンネルをカーブなどの速度制限が必要な区間と考えていただければお判りになるであろう。本来なら7両編成の長さ140メートルで計算しなければいけないのに間違えて10メートルで計算していた。
もちろん答えは×である。テストの答案では先生から点数はいただけない。
たかが100メートル前後で・・・と思ったら大間違いである。小さな積み重ねが続くと数駅程度で1分は軽く超えてしまうのである。しかも当時のJR西日本、運転時分に全く余裕のないダイヤを設定していたから大変。あっという間に遅れが常態化するダイヤの完成である。
私が運転していた山陽本線の西条から本郷でも同じような算出方法だったとしか思えない無茶な運転時分の列車が数多く存在した。いや、やろうと思ったらできた。ただそれは下り勾配でもフル加速するという安全からかけ離れた運転方法だった。
この例の他にも事故の遠因となった事象が数多く挙げられていたが、事故報告書で出された結論は
「運転士が会社からの処罰を恐れて遅れを気にしてすっ飛ばした」
で終わりである。端折り過ぎも甚だしい。中学生でももうちょいマシな言い訳ができるというものである。薪の着火剤にしかならないというのはそういう意味である。
家族”等”?
と本来ならここで終わるわけであるが、私としては気になった点があった。それは家族”等”への事情聴取、それに繋がるひとつの内容である。
当然のことながらこれだけの大事故となると本人だけというわけにはいかない。同僚・上司、家族に至るまで当時の本人の状態についてこと細かく事情聴取されていたことは間違いない。
その「気になった点」とは事情聴取そのものではない。その対象者である。
報告書のなかに「知人の女性」という記述がある。
読んでみると、お付き合いしていた相手ということがわかる。事故前日もメールのやりとりをしたというふうに書かれている。
これだけ?いや違う。
「乗務中にやりとりすることは絶対になかったが、乗務中も私物の携帯電話の電源を切らずマナーモードにしていたのでは・・・」という行がある。
恐らくふとしたときに電話をかけてみたら繋がるけど出なかったという経験からそう思ったのであろう。よくある話である。となると、事故当時も電話の電源は入っていたと考えて良いだろう。
続いて運転士本人の電話機の受信履歴である。報告書にはこのような記載がある。
「事故当日の電話発信及びメール送信の記録はなかった。しかし、8時30分(携帯電話会社のサーバにより付された時刻である。)にEメール、8時57分(携帯電話会社のサーバにより付された時刻である。)にショートメッセージサービスが本件運転士あてにそれぞれ送信された記録が残されていた」
とある。運転士本人が着信したメッセージを読んだかどうかは、当該の電話機が事故で破壊されてしまったのでわからない。そう、わからないのである。
謎の運行状況
続いて列車の運行状況を見てみよう。
松井山手7時35分発、快速・東西線経由尼崎行4469M。わずかの遅れをもちながら8時24分尼崎着、ここから宝塚まで回送列車になる。
8時31分、回4469M尼崎を定時発車。途中、川西池田までは何の異常もない。
異変が起こるのはここからである。
川西池田~中山寺にある城丸踏切を通過してから中山寺までは高架区間、周りに高い建物はないのどかな風景。ここを走行中、ときに10km/hを下回る速度で運転する。
続いて宝塚到着時、制限速度を大幅超過してATS非常ブレーキが動作するもあろうことか運転士はこれを独断で復帰。ここからはもう平常心ではない異常運転が連続する。そして折り返し宝塚9時04分発快速同志社前行3418Mでは伊丹でのオーバーラン、そしてついには塚口~尼崎にある魔のR300カーブへ・・・
奇妙な記述
報告書にはもう一つ奇妙な記述がある
「8時50分 中山寺駅付近 同社から報告のあった京橋電車区運転士Eの口述によると、本件運転士が運転する当日回4469Mとすれ違った際、本件運転士と分かったが、特に変わった様子はなかった」
ご存じの通りJR宝塚線は通勤路線であり、そこそこの本数が走っている。なので列車同士のすれ違いも頻繁に発生する。にもかかわらず、なぜ「中山寺付近」の列車に限ってこのような記載をしているのか?
やはり事故調も川西池田~中山寺の異常な低速走行を疑問視しているのだ。
永遠に開かれないメール
何が言いたいのかお判りになるであろうか?
あくまでも仮定であるが、運転士はこの川西池田~中山寺の高架区間で私用の携帯電話に着信のあったメールを読んだのではないだろうか?
そのメールの送り主はいったい誰なのか?
そしてその内容は?
それが本人にとってショックな内容であったとしたら?
条件次第では爾後の異常運転の連続も納得がいくと私は思うわけである。
もちろんこんなこと電話会社に問い合わせればいくらでもわかるはず。ここまでの記述をしながらそれをあえて報告書では取り上げられなかったのはいったい何故なのだろうか。
邪推してしまうのは私だけではありますまい。
謎は謎のままに
あれから様々なことが変わった。いや、変わり果てたといったほうが正解か。しわ寄せは総て現場のほうに向かっていった。
もっとも現場が起こした事故なので当然と言えば当然である。
形変われどそれによって影響を受けた人間は数知れない。
ただ、それがもしたった一通のメールで引き起こされたとすれば、なんという悲劇なのであろう。
おそらく今疑問に思っている内容が公になることはない。当然知ることもないだろう。だが、私はどうしても知りたいのだ。2005年4月25日、あの大惨事が起きた1時間ほど前の8時30分のメールの内容を。
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